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プロレス中継
小学校中学年の頃、よく父とテレビでプロレスを見ていました。

ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ジャンボ鶴田、坂口征二・・・日本にも強いレスラーが複数いて、当時とても人気があったように思います。

週に二日ほどゴールデンタイムに放送があり、画面には、声を枯らして声援を飛ばす熱いファンがたくさん映っていました。

会場には、おっちゃんに交じって、若い男の子や若い女の人もいました。


当時、対戦は日本人レスラーVS外人レスラーが主で、日本人同士が対戦するのは、チャンピオンベルトがかかったような重要な試合だけだったと記憶しています。

そういう試合は、会場の空気もいつもと違って、テレビを見ていても緊張感がありました。

海外のレスラーには、きらびやかな覆面をかぶって、アクロバットのような格好いい技を決めるレスラーがいたり、いかにも悪そうな風貌の悪役レスラーがいたり、兄弟でタッグを組んでいるレスラーもいました。

悪役レスラーは、自分の態勢が悪くなってくると決まって、場外乱闘に持ち込み、会場のいすを振り上げて投げつけたり、レフリーに見つからないようにパンツの中から凶器を出してきたり。

その度、客席から「凶器を持ってるぞ」というような声が飛び交い、私もテレビの前で同じように叫んでいました。

悪役レスラーとの対戦は、おでこから流血するような試合も多く、怖さ半分・見たさ半分で見ていたことも多かったです。

あと、どきどきしたのが、悪役レスラーが覆面レスラーの覆面を取ろうとする場面。

覆面レスラーに馬乗りになって、後ろのひもをほどいて取ろうとする。

鼻の下ぐらいまで見えるときがあって、会場からは悲鳴みたいな声がしていました。

私は、絶対知られてはいけない秘密がみんなの前でばらされる感じがして、そんなことしたらあかんと思う反面、どんな顔をしているのか見たい気持ちもあって、どきどきしていました。

ただ、いつも危ない(>_<)と思う場面にはなりながら、顔が映ることはなく、取られた覆面が映ることはあっても、レスラーの顔が映ることはなく。

今思うと、これも営業だったのかぁという気がします(+_+)


プロレスを見ていたときは、なぜか父とふたりで、母や妹たちがいっしょの部屋にいた記憶がありません。

母がよく見ていたのは、歌番組や、ご対面番組。

逆に、このときは父はおらず、私と妹たちだけでした。

母は五木ひろしのファンだったので、五木ひろしがテレビに出ているときは機嫌が良く、また、ご対面番組の、生き別れになった親子や兄弟が数十年ぶりに再会する場面では、ナレーションの間から必ず泣き、私たちが「おかあちゃん、また泣いてんで」と母をからかうのが常でした。

母は、世間的に言う「低俗な番組」は毛嫌いしていて(「全員集合」は、けなしていたのに、いっしょに見て笑っていた(-"-))プロレス中継も嫌いでした。

当時、階段を上がってすぐの、広い和室が父と母の寝室になっていて、床の間に、赤い小さなテレビがありました。

母と妹たちは、もしかしたら、この部屋で違う番組を見ていたのかもしれません。

父は、いつも麒麟の瓶ビールをグラスについで、ビールを飲みながらプロレスを見ていました。

たぶん、この時間も、私は母の目を気にせずにテレビを見ていたのだと思います。


余談ですが・・小学校高学年の頃、夜、ひとりで二階のテレビを見ていたら、海外の映画をやっていて、ラブシーンが映っていました。

親が二階に上がってこないだろうか、こっそり見ているところを見つかって怒られないだろうか 音を消して、ものすごくどきどきしながらテレビを見ていました。

子供の頃から、家の中では、性的な話題にふれるのは恥ずかしいこと、みっともないこと、悪いこと という雰囲気がありました。

思い出すのは、小学校低学年の頃。

当時「プレーガール」という ちょっとエッチなシーンが出てくる番組があって、父がよく見ていました。

父がふざけて、番組の真似をして低い声で「プレーガール」と言っては、私と、まだ小さかった妹たちと3人でけらけら笑い、「もっかい言うてー」と父にせがんでは、またけらけら笑っていました。

母は「いやらしいなぁ」と言いながら、冷めた目で見ていた気がします。

この頃はまだ、母の目を気にしながらも、父とふざけたり笑いあったりできたのだと思います。










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テーマ:不登校 - ジャンル:学校・教育

【 2014/03/12 19:59 】

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父とのこと
週末、旦那が確定申告に使う領収書を引っ張り出してきて、仕分けしていました。

領収書を広げている姿を見て、父のことを思い出しました。


父は個人で電気工事士をしていたので、毎年、確定申告をしていました。

父が仕事に使っていた机の引き出しには、領収書が無造作に入れられていました。

中でもよく覚えているのが、琵琶湖大橋の通行料の領収書。

当時の領収書は、橋の写真が載っていて、厚い紙でできたものでした。

水色の琵琶湖と、アーチ型のグレーの橋、点々とある街灯。


引き出しの中には、この領収書がたくさん入っていました。


中2の冬休みに引っ越しするまで住んでいた家は、引き戸の玄関を入ったところが土間になっていて、上がってすぐの部屋が父の仕事部屋になっていました。

土間には金属製の背の高い棚がありました。

棚にはペンチや釘など 父の仕事道具が整理して置いてあり、棚の前にはママチャリが置いていました。

ママチャリは母が乗っていた記憶もあるのですが、父が借りていた駐車場が少し遠かったので、家との往復に父が乗っていた記憶もあります。

駐車場から家までの間には、たくさんの飲み屋さんがあって、父は帰り道、よく飲んで帰ってきました。

小学生の頃、途中で待ち合わせしてか、父に飲み屋さんにつれて行ってもらって、オレンジジュースを飲んだことがありました。


仕事部屋にあったのは、机、本棚、青焼き(図面などをコピーする機械で、コピーして乾くまでは紙はへにゃへにゃ。アンモニア水?を使うので、鼻につーんとくるにおいがしていました。)

図面を引くときに使う 傾斜を変えられる天板みたいなものもあって、いつも鉛筆、赤や青のボールペン、長い定規、三角定規などが置いていました。

子供の頃、お父さん子だった私は、父の仕事部屋が好きでした。

中でもくるくる回る椅子が好きで、父がいないときも、よく部屋に行っては、椅子に座ってくるくる回っていました。

黄色がかった茶色の 木製の机。

いちばん広い引き出しを開けると、文具品のにおいがしました。


父が仕事に行くとき、時々、いっしょについて行ったこともありました。

白いハイエース。

後ろの席には、電線などたくさんの道具が積まれていて、天井には、いつもはしごがのっていました。

ドライバーやペンチなど、常時使う道具は、ベルトで腰にまける 仕分けできる入れ物に入っていました。

作業用のベストにはたくさんポケットがついていて、釘など入れられるようになっていました。

父が仕事をしている間は、ひとり車の中で待っていたので退屈なときもありましたが、父に車に乗せてもらって出かけるのが好きでした。

父の仕事の組合のボーリング大会について行ったこともありました。

このとき父が景品でもらった ピンクのくまのぬいぐるみが大好きで、毎晩いっしょに寝ていました。

小学校低学年くらいまでの記憶だと思います。


申告の時期、父はいつもぎりぎりだったので、母はよく怒っていました。

期限内に出さず、督促の書類が送られてきたこともあって、それがまた母の怒りになっていました。

また、青色申告だったため、母は「大したもうけもないのに、なんで青色申告なんや」と言っていました。

引っ越ししたあとは、母の文句はさらにエスカレートしていて、家に仕事の電話がかかってくるとよく「こんな仕事しててももうからへんのやし、やめたらええのに」と言い、「そう思わへんか?」と同意を求められました。

父が留守の時は、部屋にいた私や妹たちに言っていたこともあったし、電話を切った父に直接言っていたこともありました。

その度、父は「うるさい」と大きな声で怒鳴っていました。

そういうとき私は、「怒鳴る父は、悪い人」「怒鳴られる母は、かわいそうな人」と思い、父への嫌悪感をふくらませていきました。

父は、もともとは私たち娘には温厚な人で、仕事の電話などで声を荒げている姿を見聞きしたこともありません。

父が怒鳴らなければならない状況を、ずっと母が作っていた。

そして、子供の頃、お父さん子だった私も、大きくなるにつれ、「父のことを毛嫌いしている母」を通してでしか父を見ないようになっていきました。


母から「お父さんは家にお金を入れてくれない」「あんないい加減な人とは結婚せんとき」とずっと言われ続けてきて、高校生ぐらいから、母のことは私が守らなければという思いがありました。

仕事から帰ってくるといつも疲れて横になったり、仕事場から半田付けの内職を持って帰ってきて、家でやっている母をよく見ていました。

若い頃、私の職場に銀行の窓口があり、毎月、末妹の高校の学費の納付書とお金を母から預かって、私が振り込んだり。

そんな中で、金銭的にも母に苦労をさせている父は悪い人 という思いは強くなっていきました。


「母は私が守らなければ」と決定的に思ったのは、22~3才の頃。

母方の祖母が亡くなったときに、父がお葬式に来ず、父の兄が来てくれたのを見て、母がおんおん泣いていたこと。

その数日後、夜中に階下から おーんおーんと動物が鳴いているような声が聞こえてきて、何だ?と思って下りていったら、父が母をぶったような気配があり、母が泣いていました。

私は、腹が立って「二階においで」と母を自分の部屋に連れて行き、ベッドの隣に布団をひいて、母を寝かせました。

おかんを泣かせて絶対に許さない。

父を徹底的に憎むようになったのは、このことがきかっけでした。

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【 2014/03/09 12:46 】

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焼き豚の思い出
先日、焼き豚を買いに行くときに、子供の頃、父のおつかいでよく焼き豚を買いに行ったことを思い出しました。

子供の頃、商店街の近くに住んでいたので、近所に何軒かお肉屋さんがありました。

その中でも、父のおつかい先のお肉屋さんは、商店街を下がってきたところにある ふじいさん という小さなお肉屋さんでした。

対面式のショーケースのガラス越しに、お店の中でお肉を切ったり、コロッケを揚げているのが見えました。


焼き豚を買いに行くときは、いつも母が留守のときでした。

父からお札(たぶん1000円札を2枚ぐらい)を渡され、「焼き豚○○グラムね」と言われたことを繰り返してから、ひとりで買い物に行きました。

妹たちは、家で父と待っていたんだと思います。

ひとりで買いものに行くのは、自分がお姉ちゃんだから、お父さんにおつかいを頼まれたんだと、少し誇らしげな気持ちでした。


焼き豚は、ショーケースの中に並んでいました。

どきどきしながら「焼き豚○○グラムください」と言うと、お店の人が、ショーケースの上にあるはかりで計って、包んでくれました。

包みは、白いナイロンのひもで十字にくくられていて、家に持って帰って開けると、透明の小さな袋に入ったたれがいくつか入っていました。

袋には、豚のイラスト(たぶん某日本ハムの豚)が描いてありました。


買ってきた焼き豚は、取り分けず、大き目のお皿に移して、甘辛いたれをかけて食べました。

父がたれをかけて食べるのが好きだったんだと思います。

部屋からは、窓越しに中庭が見えていました。

外が暗かった記憶がないので、休日のお昼ごはんだったのかもしれません。

長方形の座卓に、父と私と、まだ小さかった妹たち。

おかずは他になくて、食卓には白いご飯と買ってきた焼き豚だけでしたが、おいしい楽しいごはんでした。


うちの父と母は、私が小さい頃から絶えず、罵り合うけんかをしていて、家の中には、いつ争いが起きるかわからない緊迫した空気がいつもありました。

それは、ごはんを食べているときも同じで、今日は大丈夫か、何も起こらないか そんなことを思いながら、父と母の顔を交互に見ながらごはんを食べていました。

母が留守の食卓は、そういうぴりぴりした空気がなかった。

父は、礼儀にはうるさいところがありましたが、私が顔色を窺ったり、気を遣わなければいけない人ではなかったので、何も気にせずに、ゆっくりごはんが食べられたんだと思います。

小さいながらに、妹たちにもそういう感じがあったかもしれません。


お肉屋さんでは、コロッケもよく買っていました。

これも、たぶん、父のおつかいに行ったときにいっしょに買ってたんじゃないかと思います。

父は、数を制限する人でもなかったので、私が好きな分だけ買ってきてよかった気がします。

と言っても、そんなにたくさんも食べられないので、自分の分と妹たちの分。

父の分も買っていたかもしれません。

揚げたてのコロッケは、あつあつ さくさくでおいしかった。

私は、今でもお肉屋さんのコロッケが好きで、特に揚げたてがあると、買って、車の中で食べながら帰ってきます。

う~ん物足りないなぁ・・と思うときは、ふじいさんのコロッケが結構スパイシーだったので、自分の記憶にある味を求めているんだなと思います。



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【 2014/03/06 03:21 】

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なしくずしにする言葉
「私はこれまで家族を監視してきしたし、殺気も出してきたし・・」

セッションで、この「し」が、私の「なしくずしにする言葉」だとわかった。

「監視してきた」「殺気を出してきた」で止めれば、そこにはもうやらないという意志がある。

「し」を使うことで、自分がやってきたことを逃し、なしくずしにする。

相手の「私はこんなことをしてきた」に「私も・・」と返せば、相手への同調も入る。

自分から切り出せば、相手を巻き込む、囲い込むことにもなる。

「こんなひどいことされてきたんだから、やってもしょうがないよね」

そこにあるのは、私は悪くないという気持ち。

それが、無意識に言葉として出る。

言葉に出すことで、また自分に「しょうがなかったのよ」と思わせ、自分の正当性を高める。

母親からされてきたことと、自分が子供や家族にしてきたことは別。

自分が「し」を使って、なかったことにしようとしていないか、意識して話そうと思う。



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【 2014/01/26 17:42 】

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処罰
自分のうっとりを考える中で、母との関係がうっとりだったんじゃないか と思い返していました。

5年ほど前、「世代間連鎖」のことを知り、息子の不登校も、私自身の生い立ちが関係しているんじゃないか?と思うまで、母とは大の仲良し親子だと思っていました。

社会人になって家を出ていく妹たちを見ながら、家ほどいいところはないと思っていたし、それは結婚してからも変わることなく、息子を出産してからも実家には頻繁に帰っていました。

初めは、いい嫁をやろうとしたものの、不快いっぱいになってすぐにできなくなり、口をきかない、話しても用件だけを不機嫌いっぱいで面倒くさそうに話す、無視する・・義母には、自分の不快をあらわにしてきました。

おかんならこうしてくれるのに・・と、義母と母をよく比べました。

ずっと、母の側ほどいいところはないと思ってきました。


うっとりは、ひとりよがりですが、母とは、どちらもがうっとりしていたんじゃないかと思います。

うっとりが絡み合っているような関係。

私は、母の意向を察して話す、動く。

母が、私の気持ちを察して何かしてくれることはほとんどなかったですが、母の意向さえはずさなければ、母は機嫌が良かったし、母といっしょにいることが楽しかった。

母もたぶん、私が不快になるようなことはしないので、私に対してはずっと「快」状態でいたのではないかと思います。

父や妹たちとの分断は、もともとは母からされてきたことですが、母とのうっとりを邪魔されないように、自分で分断を強めていったのではないかと思います。

特に、父は、母に苦労させるひどい人、すぐ下の妹は、母を不機嫌にさせる悪い子 として、憎しみや処罰感情も持ってきました。

いちばん下の妹に同じ感情を持たなかったのは、子供の頃から読書感想文が得意で、よく表彰され、それで母がうれしそうにしていたこと、自分の言いたいことも言うけれど、すぐ下の妹のように反発するばかりでなく、母の言うことも聞いていて、母が不機嫌になることがあまりなかったこと、しっかり者で母が頼りにしていたこと・・からだったんではないかと思います。

書きながら、父だけでなく、妹たちも「母がらみ」で見ていたのだとわかりました。


いちばん下の妹は、大学時代家を出ていて、母がよく、かんづめやふりかけ、のり、お菓子、カップ麺などを、うれしそうに段ボールに詰めて送っていました。

今思うと、不憫で・・もあったと思いますが、母の希望以上の大学に入ったことからのうっとりもあったのではないかと思います。

私は、嫉妬も感じながら、妹が知った人のいない土地で暮らしていること、学費以外は自分のバイトでまかなっていて、給料日前は食べるものにも困っていると聞いていたことなどから、毎月、給料をもらうと妹にお小遣いを送金していました。

小さい頃の妹たちを思い出したら、ふたりともまんまるの顔をして、みそっ歯で、かわいかった記憶があるのですが、母を軸にして、妹たちに思うことも変わっていったように思います。



先日のセッションで、「バイトしない息子を見ていらいらする」と話しました。

家の中が安心できて気持ちも体も休まらないと、外でがんばることは不可能だと頭ではわかっていても、動けない息子が許せない。

「家で休むことがどうして悪いの?」と聞かれ「ちゃんとしないといけない」と答えました。

「ちゃんとしなさい」「さっさとしなさい」も、母からよく言われてきました。

ちゃんとやったら、母は機嫌がいい。

そのときは、おびえなくてもいい。

ちゃんとやらなかったら怒られる、責められる。

怒られること、責められることがいちばん怖いことだと思ってきましたが、処罰されることが怖かったんじゃないかと、書きながら思っています。

自分が不快を感じるときを振り返ったら、同時に処罰感情を感じている。

私を不快にさせたのは誰?と犯人捜しをするのは、処罰するため。

ためこんできたのは、不快だけでなく、処罰したい衝動もであると思います。


息子が子供の頃から、言うことを聞かないと、テレビやおやつをよく禁止してきました。

バイトをやめてからも小遣いを渡してこなかったのは、時間はあるのに働かないなら、罰として渡さない の思考でした。


おそらく母にもこの思考があって、具体的な記憶は思い出せませんが、子供の頃、日常的に処罰されていたのではないかと思います。

母とのうっとりは、処罰の上に成り立っていたのではないか。

そして、息子と、このうっとりを再現するために、処罰を行ってきたのではないかと思います。



思い出したのは、閉め出しされたときのこと。

実際に閉め出されたのは1回ですが、気持ちの閉め出しはよくあったと思います。

これも処罰だったのかと腑に落ちました。


自分が殺気を出すのも、処罰のひとつ。

処罰されるのが怖くて、先に自分が出して押さえつけている もあるのではないかと思います。

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【 2013/12/18 17:51 】

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